『わたしの腰痛物語』第五話
第五話
golem ~うごくせきぞう~
起き上がろうと横向きになることすら困難になったわたしは、腕の力で仰向けのまま、なんとかマッドレスの端までくることができた。
わたしの寝床は床に直置きしたマッドレスに布団をのせたものだった。
マッドレスの厚みは約30センチほどだったので、マッドレスから体を落とし、なんとか横向きになれた。
そこから、体の芯を曲げずに起き上がるのは、前回のぎっくり腰の時に習得していたので、そこから両ひざに手を当て、まず右膝をたて、左膝も立てる。
ここまで来たらあとは膝に当てている両の手をすこしづつ上にづらしながら上体を立てていけば無事立ち上がったと言えるのだが、それができなかった。
ヤクザ映画やドラマで組長の娘が出掛けるときなどに、舎弟たちが
「お嬢、お気をつけなすって」
などと、いうときにするあの姿勢のまま動けないのだ。手をずらそうと、片手を離せば、腰に激痛が襲ってきた。
「まーさー、たべちゃうよー」
ふたたび母の声がした。
今必死で歩く方法を考えていた。
普段なら20秒もあれば母屋に行けるのだが、いまだに部屋。
なんならようやく起き上がれた。
腕を持ち上げず、足と手をセットで一歩。
ふたたびあの理解不能なレベルの痛みが腰から脳天まで駆け抜ける。
この方法では離れを出る前に死んでしまうと思った。
さんざん考え、いろいろ試しているうちに、原点回帰、背中這いずりならば、少なくとも離れの玄関口までは行ける、と思い、壁伝いに床に手をつき、時間をかけて起き上がった作業を逆再生のように行い、廊下に倒れこむ。
床に横になってはじめて思い付いたのが、棚や、扉のデッパリがはしごのように一定間隔で存在していたので、はしごのようにのぼれば玄関まで行ける、という作戦だ。
すこしでも腰に力が入ってしまうたび、どっと冷や汗をかきながら玄関口までたどり着く。
寝そべったままなんとか足にスリッパを装着し、先程と同様にして、また例の「お気をつけなすって」ポーズになれた。
そして、床に裸足ではなく、コンクリートとスリッパになったお陰で、すこしなら足を滑らせることができた。
といってもジリジリと1センチほど痛みに耐えながら動かしては休み、動かしては休み。
そうして母屋まであと7割ほどの距離のところで最大の敵があらわれた。
段差だ。しかも下り。
下に「とん」と足が着地したときの痛みを想像するだけでゾッとした。この状況下では膝をクッションにすることもままならないのは明白だった。
ゾッとはしたがこれを越えなければ母屋へは到達できない。
意を決し歩みを進める。
「とん」
目を開けると目の前のコンクリートには数滴の水滴があった。
痛みがすこし落ち着いてきた。
その水滴が自分の唾液であるとすぐには気がつけなかった。
歯の根本がいたいほど歯をくいしばり、痛みに耐えていたようだ。
しかし、足はもう一本あった。
自分に言い聞かせる。
「一度できたのだから、もう一度同じことをすれば良い。」
「とん」
汗なのか涙なのか、視界が歪む。
手を離せないので拭くこともできない。
それでもジリジリと、ゆっくり母屋へ進む。
9割、というより母屋の玄関口まで来たところで、玄関の戸が開いた。
つづく
第六話
mother&doctor https://masamori0304.hatenadiary.jp/entry/2018/08/23/152601
『わたしの腰痛物語』第四話
わたしの腰痛物語
第四話
break the world ~絶望と欲望~
2012年3月末花粉症と思われる症状に襲われる。
この時すでに、どんな体勢でくしゃみをすると、腰への衝撃が一番小さいかを認識していたため、立っているときなら、壁に手をつき、軽く膝を曲げ腰を軽く落とす。数字の5のような姿勢でくしゃみをする。床に座っているときや、ねっころがっているときは、急いで四つん這いになり、軽く身体を丸める。
そうでもしなければくしゃみをしたあと何秒も痛みで苦しむことになる。
といっても、その体勢をとっても痛みがゼロになるわけではないが。
そうやって衝撃を逃がして、腰が治るのを待っていた。
しかしどうにもならない場面がやって来た。
食事中だ。
わたしの家では食事はリビングのテーブルで、皆床に座り食べていた。いわゆる茶の間スタイルだ。
ひとくちでパクッと食べられるものなら、いつも通り、くしゃみが出そうと感じた時点で例の体勢になって構えればよいのだが、あの時は無理だった。
私は朝食に暖かいそうめんをすすっていた。
私は重度の猫舌で、熱々の汁からレンゲに箸で持ち上げた麺の下半分ほどをのせる。
この時重要なのが、しっかりスープを切ること。
でなければいくら「ふーふー」と息を吹き掛けても冷めにくいからだ。
そして麺の温度を唇で計り、すすり始めたそのときだ。
「あ、やば!」
鼻のずっと奥、むずむずとくしゃみの予兆を感じた。
瞬間、私はいくつものパターンを考えた。たとえば
口にはいったぶんだけのところで噛みきり、麺をレンゲに戻す。急いでそしゃくし飲み込む、そしてあの体勢へ。これは間に合わない。
一気にすすってしまって麺は口の中へ。これはくしゃみで手のひらへリバースしかねない。
口には入れたがすべて吐き出しあの体勢へ。これなら間に合う。
間に合うが、あまりにも汚い。特に母はこういったことをひどく嫌う。
たとえばグルメ番組でタレントがラーメンを食べている映像を想像してほしい。コメントするためとはいえ、麺を口に運び、軽くすすり、噛みきり、噛みきられた麺は汁へ戻る。
こんな映像が流れようものなら非常に機嫌が悪くなる。
つまり、一瞬で考えた方法はすべて、汚いというネックがあった。
・・・そしてわたしは麺が半分口にはいったまま口元を隠し、麺を噛みきることなくくしゃみをした。
そしてわたしは短期間で2度目の、そして前回よりも重度のぎっくり腰になった。
食事を終え、皿すら重く感じるほどの腰痛に耐え、流し台へ運び、水を入れる。
例によって担任教師にメールし、部屋に戻る。
今日はおとなしく寝ていよう。
「まさーごはーん」
気がつくともうお昼のようだった。母が呼んでいる声がした。
わたしの部屋は離れにあったため、食事ができると大声でお呼びがかかる。
さっき食べたばかりでお腹空いていないが、ひとまずリビングへ行こうと起き上がろうとするが、起き上がれない。
わたしは仰向けに寝ていた。
起き上がるためにまず横向きになりたいが、横を向こうとすれば感じたことのないレベルの痛みが走ったのだ。
そんなとき私が最初に思い浮かべたのは子供の時からの夢と、数日前に二者面談で担任教師と交わした言葉だ
「お前腰弱くて腰痛持ちで、トラックの運転手なんてできんのかよ、就職できないんじゃないか」
「気合いでなんとかしますよ」
これはトラックの運転手どころか仕事することすらままならないのではないか。
そんなことを考えながらなんとか最小限の痛みで起き上がれないかと、思考していた。
つづく
第五話
配当利回りとは!
ワンタップバイから送られてくる決算日、配当利回り。
正直言って
さっぱり分かりません(笑)
ニュアンスでなんとなく「このくらい配当金がもらえるのかな」みたいには思っていたのです。
よくよく調べたらわたしの愛読書、株の先生である
『マンガでわかる最強の株入門』には「配当利回り」何て言葉は載ってなかった!索引したけどない!
ということで実例に当てはめて学ぼう!
ただ配当利回りを学ぶのではなく、ワンタップバイバージョンを学びましょう!
かなり長い記事なうえ分かりにくいかもしれませんので、一番最後の結論だけでも読んでみてください
配当利回りとは!
(例)ニトリHD配当利回り約0.60%
(本日8月17日終値を採用)
購入時株価 約15815(小数点以下省略)
配当額92円(一株あたり)
必要な情報は以上。
公式は
配当利回り=(配当額÷1株の株価(購入時))×100%
当てはめると
(92÷15815)×100=0.58
ちなみに同日のセブン&アイを当てはめると
(90÷4608)×100=1.95
計算日が違うため若干の誤差はありますがこれが通常の配当利回りの計算式。
ワンタップバイからメールで来るのは、「直近の配当金がこのくらいだったし、おそらく一株あたりこのくらいの配当金だろう」を逆算したものだと思います。
配当利回りは高くなるほうが利益なのは確かです。
なぜならこの計算式でわかる通り、配当金は一株あたりに支払われるもので金額にたいして支払われるものではないからです。
安く買っても高く買っても一株は一株なんです。
ニトリでいうと15815円を一株所持していて「配当利回りが0.6%くらいです」ってメールできても
15815×0.006=94
という単純な話ではないんです。94円も配当金はもらえません。
そもそも配当利回りとは一年で計算されています。
日本株はほとんどが年二回の配当が出ます。2回あわせて0.6%(推定)なんです。なので
正しくは
「配当利回りが0.6%くらいです」とメールが来たら
自分の保有状況を見てみましょう。
なぜなら人によって違うからです。
メールをよーく見ると
と書いてあります。つまり、配当利回りが0.6%なのは8月10日の終値で買付した場合
ワンタップバイの銘柄の右端の「…」を押すと現在の保有状況が見れると思います。
そこに平均買付株価
というのがあると思います。
わたしの場合のニトリは
約17454円で10000円分買い付けしています。
配当金は前回の3月のものを使います。(47円×2回)
公式に当てはめると
X=(94÷17454)×100
X=0.53
わたしの場合配当利回りは0.53
1年間持ち続ければに黙って0.53%配当金がもらえます、ということ。
私は購入時の株価が高すぎて配当利回りは低め。
逆に安いうちに買っていれば配当利回りは大きくなります。
上の例で使ったニトリのワンタップバイバージョンの配当金の計算ですがわたしは0.57株(10000円)の株主なので
*1×100=0.53
(53.58÷10000)×100=0.53
10000円あたり年間53.58円ぐらいの配当金がはいるであろう。
という計算。
これはわたしの場合0.6%未満の配当利回り0.53%の場合であって万人共通の数字ではありませんが計算式は分かっていただけたでしょうか?
この10000円は現在含み損で9016円の価値しかありませんが、それは関係なく
この夏の配当金は、わたしの持っている0.57株に対し、
約 0.53÷2×100 (円)
支払われる予定ということです。
結論!!
・単純に買付金×配当利回り=配当金ではない
・買付金ともらえる配当金の額は関係ない
・過去の配当金は調べるとすぐ出てくる
そしてワンタップバイからメールで配当利回りのメールが来て「自分はいくらくらい配当金もらえるんだろう」と思ったら過去の配当金を調べ、自分の保有株数を見て計算してみよう。
(配当金×保有株数)÷2=今回もらえるであろう金額
(例)
一株2000円保有数0.5株(1000円分)
として
配当利回り1.0%(年二回の配当)
前回の配当金が10円
としたら
(10×0.5)÷2=2.5
この夏の配当は約2.5円ほどだろう。
となる。
*1:94×0.57)÷(17454×0.57
『わたしの腰痛物語』第三話
わたしの腰痛物語
第三話
repeat&fault ~繰り返す悲劇の連鎖~
ぎっくり腰になった当日。
動けなくなって数時間で寝返りを打ったり、起き上がってお茶を飲んだりできるくらいに回復した。
この調子で回復していけば明後日には元通り。
そう確信し、病院にはいかなかった。
というのも私は中学校に上がる前から母に言われ続けていた言葉があるため「病院に連れていって」とは言えなかった。
わたしの祖母は「てんかん」という持病を持っている。
母が子供の頃は、まだその「てんかん」の発作のメカニズムがわからないことが多く、母が小学校の低学年のとき、倒れたことがあった。おそらく貧血だったのだろうが、東北大学病院の医者たちはてんかんの発作の可能性を考えた。
「てんかん」が遺伝子で遺伝する可能性がある、として精密検査を繰り返した。
何年にも渡って。
祖母は仕事があったため母には付き添えず、母は小学校低学年のときから一人でバスに乗り、電車で30分移動、またバスに乗り東北大学病院へ。それを毎月繰り返していた経験から、たとえ熱が出ても自分で歩いて病院へ行っていたのだ。そのため、私が小学校高学年になる頃には、私を病院につれていくたび
「こっちは小学生のときから自分で歩いて病院いってんだ。もういい年なんだから自分一人でいけよ」
そういわれていたからだ。
16歳にはなったが、原付バイクの免許も持っていない私の病院への移動手段は自転車のみ。
タクシーに乗るお金もない。バスなど小学生の時しか利用したことがない私にとって、移動は自転車。これは決定事項だった。
しかし、いくら楽になってきて、すこし歩けるようになったからと言って、自転車などこげないし、段差などのガタガタを想像しただけで冷や汗が出る。
つまりは、現状維持。自然回復に期待。これが答えだった。
母に「病院いかねえの?」と、きかれても
「大丈夫大丈夫。明後日には完治よ、若いから(笑)」とおどけるしかできなかった。
翌日もごはんをゆっくり座って食べるのは辛かったが、回復に向かっている気はしたため、本当に治りそうだ、と思った。最悪明後日も、休んだとしても、すぐ土日、計いつかあれば動けるようになるだろう。
そう思った。
案の定土日まで行動不能だったが、月曜日は父のコルセットを借り、登校した。
想像以上に自転車は辛く、段差などの衝撃が来そうな所では、たちこぎ状態プラス、膝を軽く曲げ、クッションにしないと、歯ぎしりものの痛みが襲った。
担任とぎっくり腰経験持ちの同級生だけが心配そうにしてくれたが、他は「お前もか(笑)」といった空気だった。
そして3月末、世は春休みに浮かれる頃。農業高校にも名ばかりの春休みが訪れる。一週間ほどの休み中3日は登校だ。
変わらず腰痛と戦いながら生活していた。
楽な日もあれば自転車に乗れない日もあった、そんな日は父に駅まで送ってもらう。そんなある日。
わたしにもやってきたのだ。
それまでなんともなかったのに。
花粉だ。
目がかゆい。鼻がかゆい。鼻水が止まらない。
くしゃみが止まらない。
くしゃみが、とまらない。
つづく
第4話
break the world『わたしの腰痛物語』第四話 - 正守式投資あふぃり
鍼治療受けてきた
2012年ぎっくり腰×2
2018年2月椎間板ヘルニア、8月ぎっくり腰
という流れで、今、ヘルニアとぎっくりが同時進行の私です。
父からの紹介、ということで行ってきました鍼治療。
病院から薬もらって湿布を貼ってはいるのですが、治りが遅く、仕事にいけないので「お試し」で行ってきました。
治療の流れは
はらばいになり、首から足先まで、マッサージ。
横向きになり首から足先までマッサージ。
反対の横向きになり首から足先までマッサージ。
そこから針を指していきます。
私は左の腰を押されると痛く、ヘルニアも左足に痛みがあったため、左足が上の横向きで針を刺しました。
針自体は背中全体と左ふくらはぎに刺されました。
押されるといたかった腰のあたりは、本数が多かったように感じました。見えてませんが
指すときの痛みはほぼありませんでした。
背中や腰のあたりはシャープペンシルで「つん」とつついたようなレベルの感触。
骨盤の辺りやすね付近の肉の薄いあたりは、すこし痛くて髪の毛を一本抜いたような痛みでした。
さしたあとはまったく痛みはありませんでした。
そのまま指した針に電極か何かを付けて「低周波」というものを流しました。
針自体が「トン、トン、トン、トン」と、振動するような感じです。
これも痛くありませんでした。
10分ほどで終わり、針を抜きます。指すときより痛くないです。
次に、今度は背中にジェルを塗られ、妊娠中の女性のお腹のなかを見る機械のように、何かが背中をうろうろ…
あとで聞いたところ、表面ではなく、中を暖める機械だそうで、直接、固くなって機能していない筋肉を暖めてほぐすものだそうです。
場所で違うと思いますが、私がいったところはこういう流れでした。お値段3000円。
終了後、たくさん行動のアドバイスや、体がどういう状態なのか、たくさん説明してもらえました。
鍼治療は効果があるのかはまだ分かりません。
正直言って今も痛いものは痛いのですが、気持ちよかったです。
『わたしの腰痛物語』第二話
わたしの腰痛物語
第二話
Hearless cry ~思いだけでも力だけでも~
歯を磨き終え、リビングに戻ると、母が湿布を持って待っていた。
貼ってくれると言うので、シャツを脱ぎ、リビングの床に腹ばいで寝そべる。
「痛いのどのへん?」
この時はじめて気がついた。
「この体勢だとまったくなんともない」
はぁ?と、母に威嚇される。当たり前だ、朝は主婦にとって忙しい時間。母はさっさと済ませてキッチンに戻りたいのだ。
腰の違和感のあった範囲を手を背中に回し、説明した。湿布が小さく、結果、違和感のある範囲全面に貼ってもらうと、湿布を三枚も使った。
学校に行くにはまだ時間が早かったので10分ほどそのままの姿勢で休むことにした。
いつもと変わらないテレビ。映し出されていたのはいつも見ていた、めざましテレビ。
「美郷ちゃんは今日もかわいい。」
私は当時のお天気お姉さん、長野美郷さんに熱をあげていた。
いや、過去形ではない。現在もその熱は消えることなくわたしのなかにたしかにある。
時間は流れ占いのコーナーが始まる。そろそろ着替えて出発しなければ、電車に間に合わない。
いつものように手で床を押し、四つん這いになろうとする。
理解を超えた絶望的痛み。
そもそも床と胸が離れない。
頭が混乱する。身体を持ち上げようとすると、さっき湿布を張ったエリアが砕け散るような激しい痛みが脳天まで突き抜けて行く。
2度目のチャレンジはない。
1度でわかる。だめだこれは。
すぐに母を呼ぶ。
弁当作りを中止してもらうためだ。もし、弁当が完成したあと、学校を休むなど口にすれば、その後のことを想像するだけでおぞましい。それは今、腰を襲った痛みを遥かに上回る恐怖。
それだけは避けなければならない。
「腰痛すぎて動けなくなった(笑)担任には自分で連絡するから、とりあえず弁当積めるの中止してー」
できるだけ陽気に、逆鱗に触れぬよう慎重に言葉を選んだ。
もうちょっと早く言えよ、とだけ告げられ、すぐにキッチンに戻っていった。
わたしの通う高校は、俗に言う「不良」が多く、無断欠席、無断外出、無断早退、タバコに飲酒、万引きが日常で起こる学校だった。
タバコに飲酒、万引きは警察の管轄になるのだろうが、無断欠席、無断早退は、担任の責任となるようで
「来ないなら来ないでいいから俺にメールだけいれろ、帰るなら帰るで止めねぇから連絡だけはしろ」
と、クラス全員が担任のメールアドレスを知っていたので、すぐにメールを送る。
「くしゃみをしたら、腰がいたくなって動けなくなりました。今日休みます」
すぐに返事がきた。
「それはぎっくり腰ではないのですか?とにかくお大事に。いけるようなら病院へ」
・・・ぎっくり腰?
なにを言っている。ぎっくり腰って、あの友人のなったあれのこと?ドラマとかCMでみる「ぐきっ!」ってあれ?そんなまさか。くしゃみで?それにしばらく動けたし、ぐきっ!ともなってないぞ。
さんざん茶化した自分がぎっくり腰?
その可能性を否定するための「言い訳」がドンドン自分のなかで産み出されていく。
そんなはずがない。
そう願うように、スマートフォンでGoogleで検索をかける。
「ぎっくり腰 くしゃみ」
ずらりと並ぶ、私がぎっくり腰であるという証拠たち。
たくさんの人の経験談。科学的にくしゃみの衝撃を時速に換算した記事もあった。
私は遅生まれで誕生日は3月頭だった。
16歳、ぎっくり腰になる。
しかし、私を襲った悲劇は始まりにすぎなかった。
つづく。
第三話
repeat&fault『わたしの腰痛物語』第三話 - 正守式投資あふぃり
『わたしの腰痛物語』第一話
わたしの腰痛物語
第一話
FIRST CONTACT ~ハジメテノイタミ~
わたしは2011年3月の地震や津波の被害が大きかった地域に住んでいた。その影響で高校入学が丸一ヶ月後ろにずれ込んだ世代である。
5月、私は高校一年生になった。
農業高校だったので夏休みももちろん登校する。きちんと休めたのは一週間程度だった。
そうして、ずれ込んだ一ヶ月を取り戻すように、忙しく時は流れ、2011年12月になる。
同級生がぎっくり腰(急性腰痛)で2週間学校を休んだ。大きい荷物を家の手伝いで運んでいたところ、激しい腰痛に襲われ、動けなくなったそうだ。そのひとはもともとオジさん風の見た目でいじられており、クラスでは「おっさんかよ(笑)」といった空気。
わたしもはじめは心配したものの、学校に来るようになってからは、わたしもすこし茶化していた。
そして年がかわり2012年3月、あれはやって来ました。
朝、起床したらお風呂を洗いながらシャワーを浴びるのが日課だった私はいつのものように寝汗を流し、お風呂場から出ると、 そこは東北の3月。
当時住んでいたお家のお風呂場は、離れになっていて、脱衣所はほぼ外温度、雪は降っていないけれど、肌を刺す冷たい空気。
「こぉーさむいさむい」
白い息をはきながらぼやき、掛けていたタオルでからだの水滴をぬぐう。体についていた暖かかったお湯はドンドン温度を失い、ただの冷たい水になる。タオルが冷たくなってくると拭っているからだがブルブルと震えてくる。足先まで拭いたらタオルをかごへ放り投げ、急いで足元においていた着替えの下着へ手を伸ばす。
「ふぇーくしょい!!」ミシッ!
背中と腰が固まるような違和感と、まるで腰の筋肉なかに割り箸を入れて、その割り箸を折ろうとしたが、ミシミシと割けてささくれだったような、痛みとは言えない、まさに違和感が腰全体に広がる。
しかし、痛くはないので身体を起し、着替える。すぐさま暖かいリビングのある母屋へ駆け込む。
直感が告げていた。これは普通ではない、と。
急いでキッチンにいる母に腰の違和感を告げ、湿布を用意してもらうよう声をかける、そして私は学校へ行く支度を始める。
歯を磨いているとき、違和感が大きくなっていることに気がつき、わたしのなかで「これは筋を違えたにしては痛くない、これはなんだろう」と感じたことのない違和感に対する不安ドンドン大きくなって行く。その不安を洗い、吐き出すようにうがいを繰り返した。
つづく。
第二話
Hearless cry『わたしの腰痛物語』第二話 - 正守式投資あふぃり