『わたしの腰痛物語』第六話
第六話
mother&doctor ~一生付き合うモノ~
「え、そんなにひどいの?」
玄関から出てきたのは母だった。
声をかけてから30分たっても来ないのでさすがに心配して出てきたと言われた。
すでに30分が過ぎていたのか。
そんなことを思いながら両親に上半身と、体重を預け、ゆっくりリビングへ運ばれた。
横になったまま食事をし、今後の流れを相談した。
今日はひどすぎるので後日、すこし楽になってから病院にいくことになった。
この日は本当に大変だった。
わたしの過去の20年を振り返っても、このときの辛さはトップ5にはいるであろう。
その時住んでいたわたしの家は特殊だった。
ここまで登場した建物(母屋、風呂、寝室)はそれぞれ別の建物で、いちいちくつにはきかえなければならない場所だった。
そして、トイレも
その時住んでいたのは父の会社の事務所をリフォームしたもの(母屋)で、寝室はプレハブ、風呂場に至っては廃材を貰ったりして父や私、父の友人、親戚で半年ほどかけて作ったものであった。
トイレは会社のモノを使っていたのだ。
母屋寝室風呂場の建物はせいぜい5~6メートルしか離れていなかったが、会社のトイレへは50メートル以上離れていたのだ。
私は言わば「ロケットエンピツ」だった。食べれば出る。飲めば出る。そういう体質だった。
あれほどトイレが遠く感じたことはないだろう。
「スコップを杖がわりに使用し歩く作戦」
二歩進むことはできたが、そもそもスコップを前に出すことができなかった。
腰だけで上半身の重みを支えられなかった。
結局「小」は木陰で木に寄りかかりながらすませることとなったが、問題は「大」のときだ。
トイレに行くのにとっても時間がかかるのは言うまでもない。
なので催す前に、トイレに向かい始めなければならなかった。
結論を言えば楽な方法はなかった。
肩を借りたり、キャスターのついた板に乗ったり、いろいろしたが、早く移動できるというのは、その分衝撃を伴い、痛みがひどく出た。
その日は風呂には入らず、手の届く範囲をGATSBYのボデイーシートで拭き、眠った。
次の日
母につれられ家からもっとも近い整形外科を訪れた。
中学のときに一度来たことがあった。
その時はヤブ医者で有名だったが、このときは院長先生が代わり、病院も新しく改装されたばかりできれいになっていた。
私は弟がフィギュアスケートを習っており、小学校中学年くらいから彼のことを知っていた。
レントゲンと問診の結果「急性腰痛、ぎっくり腰だね」と笑顔で診断された。
そこから毎日病院へ通うことになった。
学校終わり、駅から自転車で病院へ行き、電気を当てあれ、マッサージを受ける。
夜の寒空のなか自転車で30分かけて家へ帰る。
これが日常となった。
正直言って、暖めてマッサージした後はすこし楽になったが、寒空のなか自転車をこぎ、衝撃を腰に受け続けていると、家につく頃には何事もなかったかのように腰痛はそこに存在した。
おこづかい5000円の高校生には毎日の150円の出費も痛かった。
一度母に告げたことがあった
「かえり道自転車だからせっかく楽になっても家につく頃にはまた痛くなっててひどいから、送り迎えしてくれてもいいのよ」
と、冗談のように明るく、軽い気持ちで言ったように言ったが帰ってきた言葉は外の空気より冷たかった。息子に対する情愛など無いのだと、悟った。
「何でいちいちお前のために送り迎えなんかしなくちゃなんないの」
なんのためなら送り迎えできるんだよ
今思えばそのときからすでに始まっていたのかもしれない。
私の精神がおかしくなったのは。
つづく
次回
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