正守式投資あふぃり

ワンタップバイで投資勉強しつつ興味あるものをアフィリエイトしていく

ワンタップバイ米国株1000円辺りの配当金計算してみた

≪注意≫
・参考にした配当実績は前回のものを使用しています。
・株価は8/24(2018)終値を使用しています。
・1ドル111円で計算されています。
・配当金を保証するものではありません。
・素人計算なので正確な数値ではありません。
税引き前表示です。

≪前置き≫
会社名の横に配当金が上がり続けているのものは「↗️」、上下しているものは「W」、横ばいなら「→」の記号を表記しています。
配当金で銘柄選択する際の参考までにどうぞ。

≪配当金がない銘柄≫
アマゾン、アルファベット、フェイスブックツイッター、テスラ

≪配当金が年2回だけの銘柄≫
ウォルト・ディズニー
※その他は4回

≪本題≫

(例)会社名(記号)株価(配当実績ドル)
1000円分配当(ドル)1000円分配当(円)

アップル(↗️)216.16(2.4ドル)
0.10ドル 11.1円

ボーイング(↗️)349.38(5.68ドル)
0.17ドル 18.87円

キャタピラー(W)138.21(3.1ドル)
0.21ドル 23.31円

シスコシステムズ(↗️)46.32(1.1ドル)
0.2ドル 22.2円

タペストリー(→)51.03(1.35ドル)
0.24ドル 26.64円

コカ・コーラ(↗️)45.63(1.48ドル)
0.3ドル 33.3円

コストコ(W)231.28(8.9ドル)
0.36ドル 39.96円

ウォルト・ディズニー(W)111.93(1.56ドル)
0.12ドル 13.32円

エクソンモービル(↗️)79.62(3.06ドル)
0.33ドル 36.63円

ギャップ(↗️)29.65(0.92ドル)
0.28ドル 31.08円

ゼネラルエレクトリック(W)12.50(0.84ドル)
0.6ドル 66.6円

ゼネラルモーターズ(↗️)35.95(1.52ドル)
0.38ドル 42.18円

エイチピー・インク(↗️)24.15(0.61ドル)
0.23ドル 25.53円

インテル(↗️)47.66(1.07ドル)
0.2ドル 22.2円

アイビーエム(↗️)146.04(5.9ドル)
0.35ドル 38.85円

モンデリーズ(W)42.39(0.82ドル)
0.17ドル 18.87円

マクドナルド(↗️)159.38(3.83ドル)
0.23ドル 25.53円

マイクロソフト(↗️)108.4(1.65ドル)
0.13ドル 14.43円

ナイキ(W)82.45(0.58ドル)
0.06ドル 6.66円

ピーアンドジー(↗️)83.3(2.786ドル)
0.31ドル 34.41円

ファイザー(↗️)42.40(1.28ドル)
0.27ドル 29.97円

スターバックス(↗️)52.75(1.0ドル)
0.17ドル 18.87円

タイムワーナー(↗️)98.77(1.61ドル)
0.14ドル 15.54円

ビザ(↗️)144.2(0.66ドル)
0.04ドル 4.44円

ゼロックス(↗️)27.40(0.31ドル)
0.1ドル 11.1円


≪あとがき≫
これを見て「え、めっちゃもらえるじゃん」と思っても、こんなにはもらえないんです。
税金がでかい。
ドルの時点で源泉徴収税10%、所得税15%引かれます。
そこからさらに住民税が5%引かれて、手取りのドルが算出されます。
そして小数点を四捨五入し、円に変換します。
このとき、1ドル辺り、ワンタップバイに35銭支払って、残りが私たちの手元へやって来ます。

この記事に間違いがありましたらご連絡ください。

4年半で500万円貯めた貯金術

私は高校新卒採用から4年半で500万円近く貯金した貯金ノウハウを紹介します。


かなり力業ですが、投資とあわせておこなえば安定して資産を増やすことができるはずです。

※投資は計画的に所持金の4分の1程度に抑えることをおすすめします。


まず、わたしの収入は、例外はありますが平均月15万円~20万円程度でした。 (ボーナス別)



次に考えなければならないのは、固定の出費

私は実家暮らしだったので、まず、生活費を家にいれなくてはなりません。

わたしの場合、ガソリン、携帯代込みで5万円入れていました。


そして、毎月10万円貯金していました。

残りの千の位以下が、おこづかい、つまり、その月に自由に使って良いお金。

そういう風に収入のなかの、固定で出費する金額、貯めておかなければならない金額を把握することが大切で、毎月絶対に手をつけない金額を決める。

余ったお金は何に使っても良い。


また、保険料(医療、生命、車)は一年分まとめて払うこと。

だいたいの場合割引になります。

時々残業やら休日出勤、ボーナスなど、予定より、多く収入を得たとき、それを使わず取って置き、支払いに回す。
余ったら貯金(または投資)に回しましょう。



まとめ

・収入と出費と投資と小遣いにルールを持たせること。

・臨時収入は使わないこと。

・保険料などはまとめて払うこと。





あとがき

わたしの場合、当時はほとんど買い物なんかしませんでしたので、このやり方でも、無理はありませんでした。
(自販機でお茶買うこともほとんどなかった)

月のおこづかいが5000円程度でも、余って次の月に持ち越すことすらありました。

月に16万円の収入があった場合↓

・5万円(家へ)
・10万円(銀行へ)
・1万円(保険などのために取っておく)
・数千円(お財布へ)


今同じ収入があるなら
5万円(家へ)
4万円(税金、年金)
2万円(保険、車の保険、車の税金)
2万円(銀行へ)
2万円(投資へ)
1万円(お財布へ)

『わたしの腰痛物語』第八話

第八話

first end ~終わりの始まり~



時が過ぎ、高校生三度目の夏が来た。忙しさに拍車がかかる。
就職活動が始まる。
休み時間の度、誰かしら教室の前におかれた求人表の束と睨みあっていた。
私は「業種」は決まっていたので、求人が来るのを待つだけだった。

新しいものが増えれば放課後ちらりと見るだけ。

最終的に求人自体は数百と来るのだが、運送会社からのドライバー求人はわずか三社にとどまった。

あたりまえだ。
高校生は免許がないのだから。

現在の就職活動において事前の職場見学は一般的である。

就職を考えている企業を学校に提出し、職場見学を依頼してもらう。

私は三社のうち二社の見学に行った。

家近くの黒い猫の宅配会社(大企業)と、福島に本社がある運送会社の仙台支店(中小企業)だ。


大企業は黙っても人が来るからか、見学者の扱いは雑で事務所内も汚かった。
いまでも印象に残っているのは企業説明が始まるまで待つことになった部屋の机に豚が交尾しているフィギュア(かなりリアル)が置いてあったことだ。

中小企業のほうは見学者にたいして紳士的だった。
建物ができて数年しか経っておらず、掃除も行き届いていた。


言うまでもないが、私は中小企業のほうを選んだ。


そして、各々履歴書を送りたい会社を決め、企業の採用人数が発表された。

私の選んだ会社は採用人数一人。
学校内での希望者三名。

学校側は一企業にたいし、採用人数より多く、生徒を推薦することはできない。
採用人数より多い場合、先生方が協議し、採用人数まで削るのだ。


私は1:3の数字を見ても欠片も焦らなかった。


私は勉強や運動ができなくてクラスで10位程度まで席次は落ちていたが、学年では変わらず3位以内(体育など実技が含まれない)だったので負けるはずがない。

二年半で築き上げた自信が不安など微塵も感じさせなかった。

もちろん私が選ばれた。選ばれなかった二人には残念だが、当然、と思っていた。


しかし就職面接、会場にいってみるとすでに二人いた。


真面目そうな人と机の前まで足を広げて座っている人。

緊張はしていたが不採用のイメージなど欠片も浮かばなかった。

しかし、筆記試験で私はゾッとした。

燃費の計算、走行距離から行き先までかかる時間の計算などは、いままで勉強したことの応用でなんとか解けたのだが

問、現在の首相の名前を感じで書きなさい

答、安倍…しんぞうってどうかくんだっけ

(A、晋三)

漢字は大の苦手だ。
そのほかにも

問、次の市町村がある都道府県を書きなさい

など、宮城からほとんど出たことがなかった私には欠片もわからない問題ばかりだった。
ただ単に地理がにがてだったのもあるが。


筆記試験が終わる。
そのとき私はもう、自信という強みはなくなり、川で溺れた子犬のような気分だった。


そして面接。
ソファとテーブルだけの狭い部屋で教科書通りの行動と共に始まった。
相手は二人、支店長と名乗る老人と、見学時に一度顔を合わせた課長。


ソファに座り、課長からの一言

「ズボンどおしたの?」

へ?

緊張のあまり何をいっているのか理解できなかったが、すぐに思い出す。家の目の前で原付バイクを転倒させ穴が開き、修正したあとがあったのだ。

一瞬間をおいた(教科書通り)あと

「転びました」

と、正直にこたえた。

面接のなかでいくつもの「嘘」をついた。
欠席理由は風邪だとか、腰は丈夫だとか、事務所の仕事をしてくれと言ったらやるかと聞かれやると断言したりした。

このときになっても、たびたび腰痛に襲われ、コルセットを巻いて登校なんて日常茶飯事だった。げんにこのときもコルセットを巻いて来ていた。


最後に支店長から言われたうれしい言葉と絶望の言葉。

「今回君以外に11人も採用試験を受けているんだけど、君は本当にうちでいいの?こんな5ばっかりの成績表見たことないよ?もっといい会社いくらでもあるでしょ?」

即座(教科書通り一呼吸開けて)に答えた。

「トラックの運転手になるのが夢で頑張ってきました。運送会社以外は考えていません。」

この答が正しかったのかはわからないが、無事採用となった。



つづく


第九話

squall 『わたしの腰痛物語』第九話 - 正守式投資あふぃり

『わたしの腰痛物語』第七話




第七話

GUILTY ~嘘は死に値する~



私は中学時代に驚異的に影響されたドラマがある。菅野美穂玉木宏主演、『ギルティ』。

「嘘をつき人を騙して陥れる行為は死に値する」

菅野美穂が演じる主人公は過去に濡れ衣を着せられ、検事、弁護士など多数の関係者に陥れられ、裁判で有罪、服役し、出所後自分を騙した弁護士などを逆に騙し、自殺に追い込む復讐物語。

わたしが魅せられたのは「嘘をつく重さ」
嘘をつくことは絶対にしてはならない、それは死に値することだ。

小さい頃から素直すぎるがゆえに、同級生たちに「嘘」をつかれバカにされたりしてきたわたしにとって、自分は「正しく」、嘘をついてきた同級生たちは「間違い」であると、裏付けがとれたと、思ったからだ。
私は嘘はつかない、正しく生きる。正しい行為が全て正しいのだと、その当時は思っていた。
しかし私はわずか数年で嘘をつくはめになるのだが。






春休みを抜け高校二年生になった。
「勉強」は出来なかったが「学習」は得意だったので成績はクラスで上位3位以内。学年でも3位以内だったので留年の心配など欠片もなかった。


心配なのは腰だけだった。


ぎっくり腰発症から1ヶ月がたっても変わらず痛みは完全にはとれなかった。
母にあの言葉を言われてから病院にもいっていなかった。

「何でお前なんかのために」

いま考えても母親が息子にかけて良い言葉ではない。
母は幼くしてわたしを産んだ。だからあの人の時間はおそらく、その「時」で止まっているのだ。

子が出来た時点で女は母になるが、大人になるわけではない。
あの人は母ではあるが大人ではないのだ。



春から夏は農業高校は忙しい。
勉強→畝作り→勉強→種まき→勉強→草取り→観察→勉強→草取り→「観察→収穫、袋詰め、訪問販売→勉強、観察→収穫、袋詰め、訪問販売」
カッコの中をひたすらに繰り返す日々。

健康な体であっても楽ではない。
ましてや腰に爆弾がある人間にとっては。


気がつくといくつもの鎖が自分を縛っていた。

高校在学中の腰痛と言う鎖。
農作業をやりたい気持ちの鎖。
いくつもの「母」の言葉の鎖。
将来つきたい仕事の鎖。


いくつもの鎖が私にたくさんの嘘をつかせた。


学校に。同級生に。母に。
就職面接時の上司に。


そして自分自身に。




つづく。


次回
first end

『わたしの腰痛物語』第六話


第六話

mother&doctor ~一生付き合うモノ~




「え、そんなにひどいの?」

玄関から出てきたのは母だった。
声をかけてから30分たっても来ないのでさすがに心配して出てきたと言われた。
すでに30分が過ぎていたのか。
そんなことを思いながら両親に上半身と、体重を預け、ゆっくりリビングへ運ばれた。
横になったまま食事をし、今後の流れを相談した。
今日はひどすぎるので後日、すこし楽になってから病院にいくことになった。

この日は本当に大変だった。
わたしの過去の20年を振り返っても、このときの辛さはトップ5にはいるであろう。

その時住んでいたわたしの家は特殊だった。
ここまで登場した建物(母屋、風呂、寝室)はそれぞれ別の建物で、いちいちくつにはきかえなければならない場所だった。

そして、トイレも

その時住んでいたのは父の会社の事務所をリフォームしたもの(母屋)で、寝室はプレハブ、風呂場に至っては廃材を貰ったりして父や私、父の友人、親戚で半年ほどかけて作ったものであった。

トイレは会社のモノを使っていたのだ。
母屋寝室風呂場の建物はせいぜい5~6メートルしか離れていなかったが、会社のトイレへは50メートル以上離れていたのだ。


私は言わば「ロケットエンピツ」だった。食べれば出る。飲めば出る。そういう体質だった。

あれほどトイレが遠く感じたことはないだろう。

「スコップを杖がわりに使用し歩く作戦」

二歩進むことはできたが、そもそもスコップを前に出すことができなかった。
腰だけで上半身の重みを支えられなかった。

結局「小」は木陰で木に寄りかかりながらすませることとなったが、問題は「大」のときだ。
トイレに行くのにとっても時間がかかるのは言うまでもない。
なので催す前に、トイレに向かい始めなければならなかった。

結論を言えば楽な方法はなかった。

肩を借りたり、キャスターのついた板に乗ったり、いろいろしたが、早く移動できるというのは、その分衝撃を伴い、痛みがひどく出た。

その日は風呂には入らず、手の届く範囲をGATSBYのボデイーシートで拭き、眠った。

次の日

母につれられ家からもっとも近い整形外科を訪れた。
中学のときに一度来たことがあった。
その時はヤブ医者で有名だったが、このときは院長先生が代わり、病院も新しく改装されたばかりできれいになっていた。

院長先生はあのフィギュアスケート羽生結弦そっくりだった。

私は弟がフィギュアスケートを習っており、小学校中学年くらいから彼のことを知っていた。

レントゲンと問診の結果「急性腰痛、ぎっくり腰だね」と笑顔で診断された。

そこから毎日病院へ通うことになった。

学校終わり、駅から自転車で病院へ行き、電気を当てあれ、マッサージを受ける。
夜の寒空のなか自転車で30分かけて家へ帰る。
これが日常となった。

正直言って、暖めてマッサージした後はすこし楽になったが、寒空のなか自転車をこぎ、衝撃を腰に受け続けていると、家につく頃には何事もなかったかのように腰痛はそこに存在した。
おこづかい5000円の高校生には毎日の150円の出費も痛かった。


一度母に告げたことがあった

「かえり道自転車だからせっかく楽になっても家につく頃にはまた痛くなっててひどいから、送り迎えしてくれてもいいのよ」

と、冗談のように明るく、軽い気持ちで言ったように言ったが帰ってきた言葉は外の空気より冷たかった。息子に対する情愛など無いのだと、悟った。

「何でいちいちお前のために送り迎えなんかしなくちゃなんないの」


なんのためなら送り迎えできるんだよ

今思えばそのときからすでに始まっていたのかもしれない。
私の精神がおかしくなったのは。




つづく


次回
first end https://masamori0304.hatenadiary.jp/entry/2018/08/24/084435

『わたしの腰痛物語』第五話

第五話

golem ~うごくせきぞう



起き上がろうと横向きになることすら困難になったわたしは、腕の力で仰向けのまま、なんとかマッドレスの端までくることができた。
わたしの寝床は床に直置きしたマッドレスに布団をのせたものだった。
マッドレスの厚みは約30センチほどだったので、マッドレスから体を落とし、なんとか横向きになれた。
そこから、体の芯を曲げずに起き上がるのは、前回のぎっくり腰の時に習得していたので、そこから両ひざに手を当て、まず右膝をたて、左膝も立てる。

ここまで来たらあとは膝に当てている両の手をすこしづつ上にづらしながら上体を立てていけば無事立ち上がったと言えるのだが、それができなかった。

ヤクザ映画やドラマで組長の娘が出掛けるときなどに、舎弟たちが

「お嬢、お気をつけなすって」

などと、いうときにするあの姿勢のまま動けないのだ。手をずらそうと、片手を離せば、腰に激痛が襲ってきた。


「まーさー、たべちゃうよー」


ふたたび母の声がした。
今必死で歩く方法を考えていた。
普段なら20秒もあれば母屋に行けるのだが、いまだに部屋。
なんならようやく起き上がれた。

腕を持ち上げず、足と手をセットで一歩。

ふたたびあの理解不能なレベルの痛みが腰から脳天まで駆け抜ける。

この方法では離れを出る前に死んでしまうと思った。


さんざん考え、いろいろ試しているうちに、原点回帰、背中這いずりならば、少なくとも離れの玄関口までは行ける、と思い、壁伝いに床に手をつき、時間をかけて起き上がった作業を逆再生のように行い、廊下に倒れこむ。
床に横になってはじめて思い付いたのが、棚や、扉のデッパリがはしごのように一定間隔で存在していたので、はしごのようにのぼれば玄関まで行ける、という作戦だ。

すこしでも腰に力が入ってしまうたび、どっと冷や汗をかきながら玄関口までたどり着く。
寝そべったままなんとか足にスリッパを装着し、先程と同様にして、また例の「お気をつけなすって」ポーズになれた。

そして、床に裸足ではなく、コンクリートとスリッパになったお陰で、すこしなら足を滑らせることができた。
といってもジリジリと1センチほど痛みに耐えながら動かしては休み、動かしては休み。
そうして母屋まであと7割ほどの距離のところで最大の敵があらわれた。


段差だ。しかも下り。


下に「とん」と足が着地したときの痛みを想像するだけでゾッとした。この状況下では膝をクッションにすることもままならないのは明白だった。
ゾッとはしたがこれを越えなければ母屋へは到達できない。

意を決し歩みを進める。



「とん」




目を開けると目の前のコンクリートには数滴の水滴があった。
痛みがすこし落ち着いてきた。

その水滴が自分の唾液であるとすぐには気がつけなかった。
歯の根本がいたいほど歯をくいしばり、痛みに耐えていたようだ。

しかし、足はもう一本あった。

自分に言い聞かせる。
「一度できたのだから、もう一度同じことをすれば良い。」



「とん」



汗なのか涙なのか、視界が歪む。

手を離せないので拭くこともできない。
それでもジリジリと、ゆっくり母屋へ進む。


9割、というより母屋の玄関口まで来たところで、玄関の戸が開いた。




つづく


第六話

mother&doctor https://masamori0304.hatenadiary.jp/entry/2018/08/23/152601

『わたしの腰痛物語』第四話

わたしの腰痛物語



第四話

break the world ~絶望と欲望~



2012年3月末花粉症と思われる症状に襲われる。
この時すでに、どんな体勢でくしゃみをすると、腰への衝撃が一番小さいかを認識していたため、立っているときなら、壁に手をつき、軽く膝を曲げ腰を軽く落とす。数字の5のような姿勢でくしゃみをする。床に座っているときや、ねっころがっているときは、急いで四つん這いになり、軽く身体を丸める。
そうでもしなければくしゃみをしたあと何秒も痛みで苦しむことになる。
といっても、その体勢をとっても痛みがゼロになるわけではないが。

そうやって衝撃を逃がして、腰が治るのを待っていた。

しかしどうにもならない場面がやって来た。



食事中だ。



わたしの家では食事はリビングのテーブルで、皆床に座り食べていた。いわゆる茶の間スタイルだ。

ひとくちでパクッと食べられるものなら、いつも通り、くしゃみが出そうと感じた時点で例の体勢になって構えればよいのだが、あの時は無理だった。


私は朝食に暖かいそうめんをすすっていた。


私は重度の猫舌で、熱々の汁からレンゲに箸で持ち上げた麺の下半分ほどをのせる。
この時重要なのが、しっかりスープを切ること。
でなければいくら「ふーふー」と息を吹き掛けても冷めにくいからだ。
そして麺の温度を唇で計り、すすり始めたそのときだ。

「あ、やば!」

鼻のずっと奥、むずむずとくしゃみの予兆を感じた。
瞬間、私はいくつものパターンを考えた。たとえば

口にはいったぶんだけのところで噛みきり、麺をレンゲに戻す。急いでそしゃくし飲み込む、そしてあの体勢へ。これは間に合わない。

一気にすすってしまって麺は口の中へ。これはくしゃみで手のひらへリバースしかねない。

口には入れたがすべて吐き出しあの体勢へ。これなら間に合う。
間に合うが、あまりにも汚い。特に母はこういったことをひどく嫌う。
たとえばグルメ番組でタレントがラーメンを食べている映像を想像してほしい。コメントするためとはいえ、麺を口に運び、軽くすすり、噛みきり、噛みきられた麺は汁へ戻る。
こんな映像が流れようものなら非常に機嫌が悪くなる。


つまり、一瞬で考えた方法はすべて、汚いというネックがあった。






・・・そしてわたしは麺が半分口にはいったまま口元を隠し、麺を噛みきることなくくしゃみをした。




そしてわたしは短期間で2度目の、そして前回よりも重度のぎっくり腰になった。




食事を終え、皿すら重く感じるほどの腰痛に耐え、流し台へ運び、水を入れる。

例によって担任教師にメールし、部屋に戻る。

今日はおとなしく寝ていよう。






「まさーごはーん」





気がつくともうお昼のようだった。母が呼んでいる声がした。
わたしの部屋は離れにあったため、食事ができると大声でお呼びがかかる。
さっき食べたばかりでお腹空いていないが、ひとまずリビングへ行こうと起き上がろうとするが、起き上がれない。


わたしは仰向けに寝ていた。
起き上がるためにまず横向きになりたいが、横を向こうとすれば感じたことのないレベルの痛みが走ったのだ。


そんなとき私が最初に思い浮かべたのは子供の時からの夢と、数日前に二者面談で担任教師と交わした言葉だ

「お前腰弱くて腰痛持ちで、トラックの運転手なんてできんのかよ、就職できないんじゃないか」

「気合いでなんとかしますよ」


これはトラックの運転手どころか仕事することすらままならないのではないか。


そんなことを考えながらなんとか最小限の痛みで起き上がれないかと、思考していた。






つづく


第五話

golem『わたしの腰痛物語』第五話 - 正守式投資あふぃり